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手すき和紙

市川和紙の歴史

手すき和紙 天平勝宝8年(756年)完成した、奈良正倉院の古文書には「甲斐の国より朝廷へ紙の原料となる麻が納められた」との記録があります。

延喜5年(905年)につくられた「延喜式」の文中にも「甲斐の国より紙が上納された」と記されています。しかし、これらの文書の中には甲斐の国とあるだけで、市川を表す箇所は見られません。

市川で紙漉が行なわれていたことは、平安初期に創建され、延暦23年(804年)平塩の岡にあった天台宗平塩山「白雲寺」の旧記に「平塩に九戸、弓削に七戸の紙漉あり」との記録があります。

また、甲斐源氏の祖、源義清が市川に入居の際、伴ってきた家臣の紙工「甚左衛門」が市川の紙漉の人たちに優れた技術を伝授したとも伝えられています。

市川手漉和紙は、長年にわたり改良を重ね、武田氏時代には、武田家の御用紙として用いられました。この和紙は「美人の素肌のように美しい」という例えで「肌吉」と呼ばれていました。この和紙を漉く人たちを「肌吉衆」と呼び、緒役が免除されていました。武田氏滅亡後も徳川家の御用紙として幕府に献上され、「肌吉衆」は手厚く保護されていました。

武田氏、徳川氏の御用紙をつとめた市川和紙は、大きな技術革新を経て機械紙漉きの技術を確立し、和紙のもつ美しさ、強靱さを増すとともに民芸としての豊富なデザイン・新鮮なアイデアが加えられ、障子紙の全国シェア40%(日本一)を誇る地場産業の中心となっています。

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