文化財(史跡)
文化財(史跡)
内藤肥前守の墓

肥前守に三男五女あり
男 内藤孫三郎雅綱 肥前守を襲名光源院開基
内藤織部正昌行 後幕府に仕へ三百石扶持
内藤孫五郎義昌 垈村に住居
女 武田信虎 妾 一男三女あり 内藤 服という
武田六郎信基 主夫折
穴山伊豆信友室 梅雪の母也
称津美濃守元直室 宮内信政ノ母
内藤修理亮昌豊 室
伊勢塚古墳

一説には江戸末期に発掘を試みたが、崇りを恐れて原形に復し石祠を建立したといわれている。
エモン塚古墳

墳丘は松林となっており稲荷の小石祠がある。昭和初期の土木工事により、前方部はすべて失われた模様である。主軸の方向は東西と推定され、封土を切り取った高さは約7mばかりで、この部分より大形の「かめ」を発掘したといわれている。
道林古墳群中、封土を残す唯一の古墳である。エモン塚の名称は近くに一条林があり武田の一族、一条右衛門大夫信竜に由来するものと思われる。
狐塚

現存する部分は径18m、高さ1mほどの草地となっている。
伝えるところによると、竪穴式の石室であったらしい。付近に積み重ねてある材石に赤色の粉末が塗ってあるのがわかる。
出土した副葬品は、鏡二面、直刀三口、剣一口、銅鈴一個、滑石臼玉一個、須恵器若干、その他となっている。鏡二面の中の一つは内行花文鏡で、いま一つは四神四獣鏡で直径12.5cm、鏡面の反り0.4cm、鏡面は半円方角帯の方形内に各一字を造出していたものであるが、現在では「吉」の一字だけが判読できるのみである。また銘帯の全文も不明だが「赤烏元年五月廿五日」の九字ははっきりとわかる。(赤烏は呉の大帝の年号・西暦238)本邦発見の記年在銘鏡中もっとも古いものに属する。
竪穴式敷石住居跡

この地は北原古墳群の一角であり、付近一帯は縄文、弥生古墳へ続く遺跡の複合地帯である。
この住居跡の発見は昭和4年4月であり、竪穴には板状の石が敷きつめられ床を固めている。しかも屋内には二つの炉が築かれているめずらしいものである。また入口に近い所(屋内)に石棒(信仰の対象)が立ててある。出土品としては、縄文中期の土器片、石斧(打製磨製)たたき石等であった。
一条氏塁跡

二、一条氏塁跡、市川三郷町上野にあり、信玄の弟一条右衛門大夫信龍の城地であった。別に上野城とも呼ぶ。外壁は二級三級の自然の地形をなし、南方は山に寄って民家が点在、北は絶岸、西はゆるやかな丘陵に続く、本丸の頂上に牛頭天王を祭る。馬場、門前、物見塚等の地名も残り、お年寄りは「一条林」と愛称している。古府中塔岩に一条氏の館があった。
大塚邑水路新造碑および代官中井清太夫生祠

石祠らは高さ147cm(台とも)正面35cm、奥行32cmの角柱で上部が欠落している。又生祠は高さ100cm、正面48.5cm、奥行75cmである。
この碑と生祠は従来押出川右岸の7年の上の排水渠を見下ろすところに建てられていたが、現在は県営大塚排水機場の北隅に移されてあり「お水神さん」として現在もなお地域住民に祀られている。

生祠

石祠