市川和紙
市川和紙の歴史

延喜5年(905年)につくられた「延喜式」の文中にも「甲斐の国より紙が上納された」と記されています。しかし、これらの文書の中には甲斐の国とあるだけで、市川を表す箇所は見られません。
市川で紙漉が行なわれていたことは、平安初期に創建され、延暦23年(804年)平塩の岡にあった天台宗平塩山「白雲寺」の旧記に「平塩に九戸、弓削に七戸の紙漉あり」との記録があります。
また、甲斐源氏の祖、源義清が市川に入居の際、伴ってきた家臣の紙工「甚左衛門」が市川の紙漉の人たちに優れた技術を伝授したとも伝えられています。
市川大門手漉和紙は、長年にわたり改良を重ね、武田氏時代には、武田家の御用紙として用いられました。この和紙は「美人の素肌のように美しい」という例えで「肌吉」と呼ばれていました。この和紙を漉く人たちを「肌吉衆」と呼び、緒役が免除されていました。武田氏滅亡後も徳川家の御用紙として幕府に献上され、「肌吉衆」は手厚く保護されていました。
武田氏、徳川氏の御用紙をつとめた市川和紙は、大きな技術革新を経て機械紙漉きの技術を確立し、和紙のもつ美しさ、強靱さを増すとともに民芸としての豊富なデザイン・新鮮なアイデアが加えられ、障子紙の生産地日本一を誇る地場産業の中心となっています。
市川大門手漉和紙

また、「市川大門手漉き和紙」は山梨県郷土伝統工芸品にも認定されており、高く評価されております。
市川三郷町立製紙試験場
製紙試験場では、製紙関係者から依頼された
各種試験及び試験場独自の調査、研究事業中心に業務を行っています。
【運営時間】 月曜日・火曜日・水曜日の9:00~16:00
【場所】 市川三郷町市川大門1725番地